新里やろう会の歴史:明和町新里は、北に渡良瀬川水系、、南に利根川水系に挟まれた関東平野の北部に位置しています。周りは田園風景が広がり、冬の晴れた日には、日光連山、赤城山をはじめとする上毛燦山、浅間山、秩父連峰、そして富士山が望めるオープンな土地柄です。
 戦前は、絹織物で有名な、伊勢崎、桐生、足利と貿易港・横浜をつなぐ街道沿いにあり、交通の要所として栄えてきました。町内にある地蔵寺の行さま(ぎょうばんさま)祭りはそんな背景もあり、東武伊勢崎線川俣駅から地蔵寺までの沿道を祭り当日は夜店が軒を連ね、近隣の村、郷からも多くの人々が集うほどの賑わいであったと、言い伝えられています。埼玉県からも特別列車が編成されるほどであったとか・・・・
 そんな賑わいのあったお祭りも、戦後の疲弊した状況下ではいつしか思い出だけの存在となり、当時の青年も年を重ね祭りのやり手がない状態でした。
 1976年のあるとき、I青年がこのままではいつしか思い出が伝説となってしまうと危惧をし、同世代の仲間に声をかけて発足したのが新里やろう会です。住民による祭りの復興が新里やろう会の目的であり、「やろう」の意味は男衆の野郎ではなく、何かを実行しましょうのやろうです。We Do Something Merry の精神です。
 発足以来行さま(ぎょうばんさま)祭りの企画運営のみならず、子ども会、老人会とタイアップしたボランティア活動にも活動範囲がひろがり現在に至っています。

さまの言い伝え

行鑁上人と厄除けだんご

 新里の地蔵寺の境内に「行鑁堂」と呼ばれている古びたお堂があります。

 今から三百年ほど昔のことです。当時この辺りは雨の降り続く季節となると水かさの増した利根川の水が押し寄せて土地を水浸しにしたり沼地にしたりし、人々は作物を育てることができず、利根川の魚を捕ってはわずかに命をつないでいました。そんな訳で生活は大変でしたが、しかし、不思議に人々の心は明るくおおらかでした。

 あるとき、この里に行鑁さまというひとりの旅のお坊さんがやってきて、いっとき身を落ちつけました。しかし衣は破れ色あせて見るからに旅のつらさがしのばれる姿でした。里の人々はこのお坊さんを心やさしくもてなしました。自分たちの食べ物にも事欠く毎日でしたが、みんなで相談しかわるがわる三度の食事をお坊さんのところへ運んだのです。

 お坊さんは、暇があると里の人々に「土地を直し土地を広げて雨にも負けない水田をつくろうではないか」と、提案しました。里の人々は「なるほど」とお坊さんの考えを取り入れて総出で沼を埋め立て土を盛り上げ、水田作りに精を出したのです。

 やがて秋、なんと今までのじめじめした荒れた土地にイネが実ってゆくではありませんか。そして年が経つにしたがって水田は大きく拡がっていくのでした。こうして実り豊かな新しい里が生まれたのでこの里は「新里」と名付けられました。

 ある年の夏、新里に悪い病気が流行りました。行鑁さまはお堂にこもって七日間の行をしたあと、里の人々にだんごを作らせました。そしてだんご一つひとつに行鑁さまが南無阿弥陀仏と筆で書き込んでそのだんごを病人に与えました。すると不思議なことにこのだんごを食べた病人はみな元気になりました。

 このうわさを聞いて遠くの村々から行鑁さまのだんごをいただきに来るようになったのです。
 里の人々は行鑁さまが亡くなった後も、お骨をお堂に納め、行鑁堂を建立し功徳を後の世代まで語り継ぐようになりました。現在でも、新暦の七月の下旬には、地蔵寺境内を中心に「行鑁さま祭り」が催されており、お参りにきた人々へは、だんご画配られています



 1.演芸舞台の作り方

1. 舞台つくり

お祭りの夜の主役は、地域住民による地域住民のための演芸舞台です。
 常設舞台がないため、手作りで毎年舞台を作ります。
 舞台には多いときで10名近く上がることもあり、Hip-Hop系のダンスも行われるため、丈夫なつくりとしなくてはなりません。あくまで一例として舞台つくりをご紹介いたします。



2.配置のポリシー


舞台つくりの最初は、空き地のどこに舞台を作るか、その舞台も人の動線や夜店配置、安全面の考慮、照明効果、音響効果を考慮する必要があります。新里夏祭りでは、地蔵時の駐車場、境内、参道を使うことが許可されましたので、もっとも広い駐車場を舞台と夜店広場にあてがいました。
 写真では県道脇に駐車場があり、舞台正面を県道走行中のドライバーが見れるとしたら脇見事後を誘発する恐れがあります。そこで、県道からは舞台の裏側しか見られないように舞台の正面を奥向きにします。

3.材料の運び込み

舞台の建設材料は、単管、ジョイント、足場板、コンパネ(コンポジットパネル)、ヨシズなどです。倉庫に格納してある材料をトラックに積み込みます。
トラックは同じ地区内の建築業の方から好意でお借りしました。
 材料は以下の通り。
単管 6m×9本    5m×11本
    4m×11本   3m×15本
    2m×4本   1m×14本
コンパネ 1800mm×900mm 12枚
足場板 300mm×4000mm 18枚
ジョイント 2連直交 50個
      2連自在 50個  
      3連自在 30個
チェーン  4m 10本
ターンバックル 6本
その他 釘、針金、工具類 

ヒップホップダンス用にプラスチック板

 4.舞台四隅の柱位置の位置きめマーカー

舞台の大きさはコンパネ12枚(2×6枚3600×5400)で決まっていますので、単管の柱の位置も毎年同じにします。そこで、駐車場の地面に柱の位置を示すマーカー(ガスホースを杭で埋めてあります)を設け、位置決めに迷わないようにしています。

5.舞台四隅の柱と床梁の固定

いよいよ舞台の建設開始です。
(1)四隅の柱を立て、舞台の高さから足場板、コンパネの厚みを引いた高さに梁を渡します。水平をしっかり出さないと、後の建築がすべておかしくなりますので、慎重に。

NEXT
地割


地蔵寺と菅原神社 地蔵寺ホームページは、ここをクリック