行鑁さまの言い伝え
行鑁上人と厄除けだんご
新里の地蔵寺の境内に「行鑁堂」と呼ばれている古びたお堂があります。
今から三百年ほど昔のことです。当時この辺りは雨の降り続く季節となると水かさの増した利根川の水が押し寄せて土地を水浸しにしたり沼地にしたりし、人々は作物を育てることができず、利根川の魚を捕ってはわずかに命をつないでいました。そんな訳で生活は大変でしたが、しかし、不思議に人々の心は明るくおおらかでした。
あるとき、この里に行鑁さまというひとりの旅のお坊さんがやってきて、いっとき身を落ちつけました。しかし衣は破れ色あせて見るからに旅のつらさがしのばれる姿でした。里の人々はこのお坊さんを心やさしくもてなしました。自分たちの食べ物にも事欠く毎日でしたが、みんなで相談しかわるがわる三度の食事をお坊さんのところへ運んだのです。
お坊さんは、暇があると里の人々に「土地を直し土地を広げて雨にも負けない水田をつくろうではないか」と、提案しました。里の人々は「なるほど」とお坊さんの考えを取り入れて総出で沼を埋め立て土を盛り上げ、水田作りに精を出したのです。
やがて秋、なんと今までのじめじめした荒れた土地にイネが実ってゆくではありませんか。そして年が経つにしたがって水田は大きく拡がっていくのでした。こうして実り豊かな新しい里が生まれたのでこの里は「新里」と名付けられました。
ある年の夏、新里に悪い病気が流行りました。行鑁さまはお堂にこもって七日間の行をしたあと、里の人々にだんごを作らせました。そしてだんご一つひとつに行鑁さまが南無阿弥陀仏と筆で書き込んでそのだんごを病人に与えました。すると不思議なことにこのだんごを食べた病人はみな元気になりました。
このうわさを聞いて遠くの村々から行鑁さまのだんごをいただきに来るようになったのです。
里の人々は行鑁さまが亡くなった後も、お骨をお堂に納め、行鑁堂を建立し功徳を後の世代まで語り継ぐようになりました。現在でも、新暦の七月の下旬には、地蔵寺境内を中心に「行鑁さま祭り」が催されており、お参りにきた人々へは、だんご画配られています。
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